まだ中学生の頃、僕は本当に勉強が嫌いだった。
古典読解や方程式が将来必要になるとは思えなかったし、何のために勉強するのか分からなかった。
「文章の読み方は人によって違うから、国語に答えはない」と国語の先生が話した時、「ならテストでどんな答えを書いても正解ですよね」なんて言っていたほど勉強には不真面目で生意気だったことを覚えている。
そんな僕だが、半年ほど前に「なぜ勉強をするのか」という疑問に対して腑に落ちた回答をtwitterで見つけた。
目の前に、お茶が入っているコップがある。この現状を自分なりに説明をしなさい
こう質問された時、国語の視点から見れば「透明なコップに入った濁ったお茶」、算数なら「200mlのコップに半分以下残っているお茶」、社会なら「中国産のコップに入った日本産のお茶」と表現できる。
つまり、目の前の出来事に対しての視点や価値観は多種多様にあって、1つの考え方に凝り固まってはいけないということだ。
勉強をするということは、そうした凝り固まった考え方を解きほぐし、自由な発想を可能にする。
マスメディアの情報をそのまま受け入れていないか
テレビ、新聞、ラジオ、インターネットなどマスメディアと一口に言っても様々な種類がある。
毎日新しいニュースが流れてきて、気がつけばその情報の大波に押し流されている。
大量の情報を処理できず、何が正しいのか判断できず、ただメディアの言葉を鵜呑みにしていないだろうか。
テレビやラジオに出演しているニュースキャスターやコメンテーターの意見や、新聞やネットで読んだ記事が必ずしも正確な情報とは限らない。
もし、考え方が凝り固まっていると、マスメディアの情報を疑わず正しいものだと信じてしまう。
解釈は無数にあるにも関わらず、1つの考え方に固執しやすくなる。
勉強することによって得た様々な視点や考え方は、「正しい情報」と「間違った情報」を判断することを可能にする。
他人に操作された意見ではなく、自分自身の見解や考え方を持つことができるのだ。
知識の増大は常識や現実といった殻から僕たちを解放してくれる
例えば、新しいゲームのルールを覚えれば、そのゲームを思う存分楽しむことができるだろう。
例えば、今の自分の悩みも原因や理由が分かれば心が少し軽くなるだろう。
そうするためにはどうすべきか。やはり新しいことを勉強して、知識を蓄える必要がある。
ここで僕が言っている「勉強」というものは、国数英理社のような5教科だけじゃないことを理解していただきたい。
五感で感じることありとあらゆる全てから、僕たちは学ぶことができる。
例えば、自分が嫌だと思う言葉があれば、あえてそれを他人に対して使おうとは考えないだろう。
勉強するということは、学校の机にかじりついて授業を受けることだけではない。
まずは、何事も学べることはあると1つ1つの出来事をよく観察し、考えてみることだ。
意外なことから自分の悩みを解決する手段を思いつくことがある。
知識に貪欲であれ
自分が勉強をできないのは、いい先生に出会わなかったからだという意見がある。
確かに、何を教えても面白く、しっかりと生徒と向き合っている教育者と出会うことは、知識欲を掻き立て、より学ぶ楽しさを覚えたのかもしれない。
しかし、知識を得ることに関して、良い先生とは絶対必要条件ではない。
ただ知識を得るだけなら、一人でも可能だし、悪い先生からも学ぶことはたくさんある。いわゆる、反面教師という人だ。
大切なのは知識に貪欲になること、どんなことでも細かく考察してみることだ。
歴史や物理などを覚えなくても、社会で生きていくことはできるだろう。
だからと言って勉強をしなくてもいいとはならない。
勉学が必要な理由は、社会に出ても他人の意見や情報の奔流に流されることなく、しっかりと自分自身の考えを持つためであると、僕は思う。
学生時代だけが学びの時期ではない。人は生涯学びつづけるものである。
自分の考えが間違ってもいい。誰しも間違いはあるものだ。
ただ、間違いだと気付いた時は素直に認めて考えを改めればいいんだ。
だから、怖がることなく、もっと知識をつけて想像を膨らませて自由に考えよう。
もし壁にぶつかったら、誰かに相談すればいい。
正しい答えを聞けるとは限らないけれど、必ず参考になることはあるはずだ。
最後に、この記事を読んでくれているあなたが自分なりの答えを見つけられることを願う。
kitaoka
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