2021年6月号 ゆっ歩通信 「意識したいこと・人と関わる生活の上での私の考え」

「意識したいこと・人と関わる生活の上での私の考え」

社会生活の上では人と関わることはほとんど不可避であるのですが(余程山奥にひきこもって自給自足で生活していくなら誰とも会わない生活が可能かもしれませんが)、ではどういう意識で生活をしていくと少しでも楽になるのか、の私の思うところを今回以降書いていきたいと思います。

まずは日々を生活していく上での前提とすることはこう思っています。

1. 思春期を迎えて自分で判断をできるようになってきたら、原則は「自分で決めて実行する」ことです。人のアドバイスであってもなんでも実行した後の結果を受け取るのは自分自身でしかないです。これは親であっても協調してくれることはあっても本当の意味で受け取ることはできないです。あと法的には未成年である場合は保護者に責任はありますが、享受できるかどうかは個々であるでしょう。

2. どんなものであっても自分の行動に対して結果の保証はされることはないということです。アドバイスする人は「この実行をしたら方向の結果になる確率が高い(と信じている)ものか結果はともかく浮かんだものを」言っているのであって必ずではありません。すると そのアドバイスを実行するかどうかは自分の判断でするのです。もし自分がそうでなくても周りは基本的には行動は本人の意識でしていると考えます。

3. 自分自身の行動(言動・反応も)には何かしらの結果が常に伴います。「何もなかった」も結果の一つです。そして結果は「後から」しかわかりません。すると実行するには結果を「信じて」するしかありません。ただ結果が100%そうなることもほとんどありません。100になるものがあるなら選ぶ必要がありません。すると人のよく使う「絶対」は高確率でそうなると思っている(高確率だから その結果になることは当然多い)だけであって「100%」の保証ではないということです。

4. したがって人間は結果を信じて行動をして信じた結果通りにならないこともあるという認識(違う結果を想定まではしなくてもいいかもですが)だけは常に思っておいて思ったことと違う結果も先に向けての材料にすればいいと考えます。

5. 特に人が相手の行動や言動は自分の思った通りの結果になることは多くはないように思っています。なぜならば行動の根底は「その人の性格・価値観・考え方など」があって自分と相手が完全一致なんてすることはまず無いからです。人と「合う」「合わない」はこの価値観などが近い割合が高いか低いかです。もし思った通りに動いた結果があっても「相手と合った」「相手が合わせた」の可能性があり、「合わせた」には「納得の上合わせた」「渋々合わせた」「合わさせられた」などがあるわけです。

次月に続けます。

(南山 勝宣)

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